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近年、高等教育のユニバーサル化が進み、多様な学生が高等教育に進学する一方、卒業時の質保証が求められており、大学教育の改革と充実が急務となっています。 アメリカで導入された初年次教育が日本の高等教育機関においてもすでに多く取り入れられ、効果を上げている大学の事例も数多く報告されています。 京都大学においても2010年度より初年次教育プログラムが試行され、今後その在り方も含めて本格的に導入されることとなっています。 本学における初年次教育の取り組みの中で、本シンポジウムでは、深い教養と高い識見及び国際的な視野の主体的習得を目標として、学生が抱える不安や疑問を支援しつつ、 学生が持つ探求心を開花させたいと考えています。学生が興味・関心に基づいて各自研究を行い、その成果を英語で論文としてまとめ、発表することを通して、 将来、学術研究の場においても社会の場においても国際的に活躍できる優秀な人材育成の機会を目指します。

発表の作成や練習にかなりの時間をさいていただいて、本当に助かりました。かなり不安があったのですが、当日は予想よりもいい具合でできたと思います。

2010年第一回全学共通教育国際学生シンポジウム参加者

英語のプレゼンテーションに関わりを持ったことがそもそもなかったので、指導の全てが有用なものでした。スライド作成時の注意点や、 プレゼンにこれだけは必要な要素などは基礎知識として不可欠でしたし、論の進め方はとても参考になりました。また実際に人の前でプレゼン練習をできたことは本当に助かりました。

2010年第一回全学共通教育国際学生シンポジウム参加者

英語で発言するコツを体得した。同じ志をもつ人と仲良くなれた。

2010年第一回全学共通教育国際学生シンポジウム参加者

・論文をかくためにかかる時間や労力の想像がついた。
・勉強のモチベーションがあがった。
・プレゼンのスキルをしった。

2010年第一回全学共通教育国際学生シンポジウム参加者

プレゼンの技術そのものを得られただけでなく、コミュニケーションの難しさを知ることができた。
委員の方々や先生、他の参加者など、新しい人とのつながりを得られた。

2010年第一回全学共通教育国際学生シンポジウム参加者

以下は、京都大学キャリアサポートセンター特任教授梅田幹夫先生からリヒテルズさんへの質問です。

京都大学キャリアサポートセンター
特任教授 梅田幹雄

Richeters直子先生
1st International Symposium Liberal Arts and General Education実行委員会御中


1970年に京都大学大学院農業工学専攻を修了し、17年半三菱重工に勤務した後、1987年に京都大学農学部講師に戻り、助教授を経て、 2009年3月に農学研究科の教授を辞め(京都大学名誉教授)、その後キャリアサポートセンターの特任教授として、博士院生とポスドクのキャリアパス支援、 日本語の読み書きの不自由な院生の日本での就職、並びに障がい学生の就職支援を担当しています。

企業の経験、農学部教授としてのアジアモンスーン地帯と畑作の社会と人間性形成の観点、及び現在の「博士人材教育は以下にあるべきかについて質問させていただきます。 日本人が国際社会で活躍するには各地域の考え方がどのように形成されてきたかを理解するための背景を教えることが、英語の訓練に加えて必要であると考えています。

1)日本人の考え方はどのように形成されてきたか。
2)ヨーロッパ(ローマンカソリック、オーソドックス、プロテスタント、イギリス国教)圏、イスラム圏、アジア(仏教、ヒンズー教)圏、ユダヤ教、 その他の考え方の基本はどのようなもので、それはいつごろから形成されてきたか。これらと比較した日本人の発想法の特殊性
3)合衆国としてのアメリカ人の考え方の形成過程と行動

この科目は、学部では無理なので、大学院それも博士課程の教養教育として教えるべきだと考えています。
ここで、日本人はヨーロッパやアメリカ人の考え方を少しは知っています。また、中国人の考え方はある程度理解できますが、イスラム圏や韓国含むアジア人の考え方を良く理解していません。 たとえば、北朝鮮という国はあのような環境で国を変えようという動きが何故出てこないのは理解できません。これと同じように、欧米人は中国人の考え方はある程度理解できるでは推測しますが、 日本人がなぜこのような考え方をするのかはほとんど理解していないと危惧しています。

江戸期に仏教のような生活規範を伴わない宗教では国の秩序が維持できないため、朱子学を導入しました。しかし、朝鮮では朱子学が残ったのにたいして、 我が国は江戸中期以降は大阪を中心に商品経済が発展しています。
今日少し批判的に離された明治期の日本の学制については、私の両親などはこの制度、つまり学校の成績至上主義で、師範学校で奨学金と言う名目で給料をもらい、 どのような生まれでも国の費用だけで教師になれたという例もあります。ヨーロッパのような階級社会であれば私の両親は農家、町屋から這い出せなかったと想像しています。 このようなことを見逃してはならないと思っています。

アジアモンスーン地帯という高温多湿の地域では、イネという栄養価の高く、したがって面積当たりの人口扶養力の高い作物の生産が可能でありこれがアジア人の性格を創ったと考えています。 我が国の場合は周りを海で囲まれていたため、より分かりにくい日本人の考え方が形成されたと考えています。

ヨーロッパ人が、ギリシャの思想をベースに学問体系を作り上げたのに対して、アジアでは中国の思想を除いて、 なぜこのような思想が生まれたかをヨーロッパと議論できるまでに突き詰めていないことが問題ではないかと考えています。

ここで、工業技術が1970年代まではCatch upであったものが、1980年代にFront runnerになり、これが我が国大学の、特に理系の大学の研究体制の改革を迫っています。 思想についても同様で、これまでヨーロッパの哲学のCatch upから自らの手で思想の背景を分析し、欧米人に日本人やアジア人の思想の背景を説明し、将来のあるべき姿を提案する時期に来ていると考えています。

21世紀に入り、インターネットや交通機関の発達により、20世紀までのように我々日本人の立場は欧米と比べて比較して修正するというだけでは済まない時代に入ったと考えています。

以上


以下はリヒテルズさんの回答です。


わたしは、地理や歴史というものは、研究者の立場や見方が非常に関わるものであるので、「知識」として「教え」られるものではない、と考えます。 これらは、ひとりひとりの人間が、自分で、自分の立場や見方から情報を収集し、さらに、批判的に検討して解釈するという種類のものでしょう。 なればこそ、これらの学問を「教える」立場にある人たちは、情報の収集法、情報の読み方、と同時に、解釈する際に、 お互いの批判的な読み方を交換する場を用意すべきなのではないのか、と思います。
オランダの小学校で行われている「世界と人類へのオリエンテーション」はまさにそれをするためのものです。 生徒たちは、それぞれの問いかけから、テーマを作って、自主的に情報を集め、集めた情報を報告し、質疑を通して、他の人の見解に照らし、情報を練り直します。 そういうリテラシーが大変重要なのだと思います。

ここに挙げられた見解も「仮説」として、学生たちの意見の素材にする、学生たちの見解をみんなで共有し議論を続ける、結論や正解を求めずに、お互いの見方を豊かにし、 情報を豊かにすることが学びであると考えます。

人間のインテリジェンスの中でも、もっとも重要なモノの一つは「メタ認知」「批判力」であるといいます。これは、自分を外から見直す力、 自分の立場や考えを客観的・相対的に見直す力です。科学とは、そもそも、この客観性や相対的な物の見方を抜きにしては存在し得ません。 そういう意味で、競争的な学歴偏重の入試競争は、子どもたちを「正解」を求めて競争することにあまりにも無責任に追い込んでしまっている。 むしろ大事なのは、「問い」を持つ練習であり、自分の問いに対して、どんな答えが可能なのか、自分ひとりではなく、他の人の仮説的な回答と比べ合う訓練でしょう。 そして、自分が立てた問いに、一旦仮の答えが出たら、そこからさらにもっと多くの問いを産んでいく、それが、「学び」であり、「科学」なのではないでしょうか。

そういう事を教えるためには、小学校の段階から、教える側の先生たちが、また、親たちが、「正解」を決め付けず、子どもと共に、「探求」する態度が重要であると思います。 そうでなければ、教科書に書かれた「正解」岳を目指すようになり、時代の変化や地理的な一の変化によって起こる、様々のものごとの変容を受け入れる柔軟な学習態度が失われてしまいます。

また、00民族はこういうモノだ、という固定的な観念は、現在のグローバル化の時代、殆ど意味のないことではないのでしょうか。むしろ、時代やその時代の自然について、 条件を規定した上で、限定的に、ものごとを分析すること、それを通して、人類の持つ可能性や限界や危険性に、国境や民族、宗教の境界を超えて、普遍性を求めていくことが、 グローバル時代の人々の学びには大切なのではないでしょうか。

欧州の人々は、欧州連合のおかげで、お互いの経験を実験事例として学ぶことができます。常に、相対的に自身のやっていることを見直せる環境にあるのです。しかし実は、 日本や中国、イスラム圏その他、非西洋の国々の文化や制度も、お互いが、情報交換していくことで、学びあえる要素を沢山含んでいるに違いありません。

京都大学には、そういう意味でも、歴史学、民俗学、人類学、社会学、言語学、等々、これまで何年もの間に蓄積されてきたたくさんの経験と知識があると信じます。 そして、こうした社会についての見解や思考は、理系・文系のべつなく、社会に生きている人ならば、すべての人が関わるべきことなのではないでしょうか。なぜなら、人間は、 社会を抜きにしては存在し得ないものですし、学問も社会との連結のないところでは意味のないものだからです。

日本とか日本人というような自我意識にこだわらず、学ぶものが、まず、個として、自分自身のあり方・生き方に気づき、それを出発点として、 民族や言語の壁を超えて他の人と交流できるためのスキル(言語とコミュニケーション能力)を身につけていくことを心から願っています。

それからCatch Upという物の見方についてですが、日本の競争原理、タテ社会は、知らず知らずのうちに、私たち日本人に、人と人との関係、 物と物との関係を上下に序列化させる習慣を身につけさせていると思います。Catch upもそのひとつで、「遅れている」「追いかける」という考え方が、あまりにも強かった。 しかし、日本は、独自の歴史と環境の中で独自の発展をしている社会です。それは、進んでいるのでも遅れているのでもなく、時間と空間の軸の中で、 ある位置に置かれているというだけのことなのではないでしょうか。世界は、先進国-開発途上国(後進国)という軸でも、第1世界・第2世界・第3世界という軸でもなく、 多元文化的な、すなわち、多様の共存の時代に向かっている、そして、子どもたちの世代は、そういう社会の中で、同自分自身を見出し、 他者と協働する方法を学んでいくかを身につけておかなくてはならないのだ、と確信しています。